150918 musicshelf マディ・ウォーターズ生誕100年祝賀ライブレポ
内本順一
マディ・ウォーターズ。1913年4月4日、米国ミシシッピ州のアイザッキーナ・カウンティという片田舎で生まれた偉大なブルース・シンガー/ギタリストだ。シカゴにおいてエレクトリックギターを使ったバンド・スタイルのブルースを展開し、「シカゴ・ブルースの父」と呼ばれるようになったマディ。深遠かつ陰影に富んだ迫力のヴォーカル、ボトルネックのスライドを駆使した攻撃的なギター、そしてカリスマ性の強いそのキャラクターから影響を受けたミュージシャンは数多く、例えばジミ・ヘンドリックスは「最初に意識したギタリストがマディ・ウォーターズだった。まだガキだった頃、彼のレコードを聴いて死ぬほどショックを受けたのを覚えている」と語ったことがあるし、元ガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュも「13歳のときに聴いたマディの音楽でオレは開眼した」と話している。ローリング・ストーンズというバンド名がマディの曲「ローリン・ストーン」から付けられたのも有名な話だ。
因みに僕が初めてマディ・ウォーターズという存在を意識したのは、ストーンズが1977年に出した2枚組のライブLP『ラヴ・ユー・ライヴ』(当時は『感激! 偉大なるライヴ』という邦題がついていた)のエル・モカンボ・サイドと呼ばれるC面1曲目「マニッシュ・ボーイ」で、当時まだ中学生だった故にブルースなんぞは聴いたこともなく、何度も繰り返されるフレーズと妖しくそれを歌うミックの声に「なんなんだこれは?!」と思いながらも次第に引き込まれていったのを覚えている。また、1978年に日本公開されたザ・バンドの映画『ラスト・ワルツ』を日比谷みゆき座に観に行ったのだが、そこで初めて動くマディ・ウォーターズを観て(曲はやはり「マニッシュ・ボーイ」)、よくわからない恐れのようなものと興奮を同時に感じた。
9月12日、下北沢GARDENに集まった観客は、ざっと見渡したところ40代後半から50代くらいの男性が多く、ということは恐らく僕と同じようにストーンズの『ラヴ・ユー・ライヴ』やザ・バンドの映画『ラスト・ワルツ』あたりをきっかけにしてマディを知ったというひとがけっこういたんじゃないだろうか。
自分のことばかり書くのもアレだが、そんな70年代後半頃から僕はRCサクセションやシーナ&ロケッツのライブに足繁く通うになり、後追いではあったがサンハウスにもハマって、83年に日比谷野音で行なわれた再結成ライブ<クレイジー・ダイアモンズ>も観に行った。ストーンズももちろん夢中で聴いていたけど、マディ・ウォーターズはというと確かに『ラスト・ワルツ』の「マニッシュ・ボーイ」でガツンとやられたものの、まだその頃は熱心にアルバムを聴くまでには至らなかった。その凄さ・深さが理解できるようになったのは、もっと大人になってからだ。
だから僕はシーナ&ロケッツやサンハウスの音楽を、当時はマディの曲を知らない耳で聴いていた。シーナ&ロケッツや、とりわけサンハウスの音楽が、いかにマディ・ウォーターズの影響下にあったか。それがわかったのは、ずいぶんあとになってからだった。
例えば「オレはあんたとやりたいから〜」で始まるサンハウスの「恋をしようよ」は、ストーンズもカヴァーしたマディの「アイ・ジャスト・ウォント・トゥ・メイク・ラヴ・トゥ・ユー」(邦題はズバリ「恋をしようよ」)の歌詞をそのまま引き継いだものだったし(ルースターズの「恋をしようよ」はまたさらにその改作)。「なまずの唄」は「ローリン・ストーン」(昔からあるブルース「キャットフィッシュ・ブルース」のマディ版)から来ていたのだろうし。「風よ吹け」はその題を英語にするなら「ブロウ・ウインド・ブロウ」だし。そもそもサンハウスというネーミング自体、マディが子供の頃に憧れていたブルース歌手のサン・ハウスから取られているわけで、言ってみればサンハウスは、そしてそこから派生したシーナ&ロケッツは、マディのブルースから生まれた子供たちとも言えるバンドだったわけだ。
さて、そんなサンハウスとシーナ&ロケッツ、そしてやはりマディから多大な影響を受けている永井"ホトケ"隆(元ウエストロード・ブルーズバンド、現blues.the-butcher-590213)の3組出演による『マディ・ウォーターズ生誕100年祝賀ライブ 鮎川誠Presents THE BLUES BABY ROCK AND ROLL』。エレクトリックなブルースの息子たちが偉大な父親の生誕100年を祝うといったそのイベントはチケットも早くに完売となり、先にも書いた通り40代・50代くらいの男性客が特に多く集まっていた。DJを担当した山名昇がマディの曲ばかりをかけ、開演前からGARDENは黒くて煙い雰囲気に。そして19時をだいぶ過ぎたあたりで客電が落ちると、まずはシーナ&ロケッツの3人がステージに登場。いつものようにカウントダウンが聴こえ、お馴染み「バットマン・テーマ」で幕を開けた。
フロアを見渡し、嬉しそうに笑顔を浮かべる鮎川誠。「本当にマディのおかげなんよ、オレたちがロックできるのは。今日は自分たちの曲を全部マディに捧げます」と話し、続いて「ビールス・カプセル」を放った。そして「初代ほら吹きの王様、マディ・ウォーターズ!」と言い放ち、「そんなこと言ったら怒られるかな?」と一言加えた上で「Oh No! I'm Flash(ホラ吹きイナズマ)」を。のっけからの攻めの展開に観客は盛り上がらないわけにはいかなかった……がしかし、どうもステージ上のモニターの返りがよくなかったようで、鮎川は何度もスタッフに調整を求めて指示を出していた。そして4曲目を始める前には、こんなエピソードを。「1980年、初めてマディは日本に来ました。亡くなる3年前です。渋谷公会堂でそれを観たんですけど、1曲目を聴いたら涙がポロポロ出てきて……。そのときの1曲目にやった曲で、(ウィルコ・ジョンソン・バンドを迎えてのセッションで作った自身のソロ作)『LONDON SESSION#1』にも入れた曲を」。そう話してマディの「ベイビー・プリーズ・ドント・ゴー」を歌い、さらに「マディの出世作となった曲で、1948年……オレが生まれた年に大ヒットした曲」と説明して「アイ・キャント・ビー・サティスファイド」の演奏へと続けた。この曲でのスライドは実になんともしびれるもので、始まって数曲はモニターの返りにしっくりいかなかった様子の鮎川だったが、このあたりからどんどん調子を上げていったように見えた。そして次もマディの曲で「ザ・ブールス・ハド・ア・ベイビー・ゼイ・ネームド・イット・ロックンロール(ブルースの赤ちゃんはロック)」を。このイベントのタイトルの元になった曲でもあり、「オレたちはみんなブルースのベイビーで、ロックンロールだぜ」という鮎川の言葉が核心を突いていた。
続いては「サンハウスのときにマディを聴いて作った曲」と紹介した上で「なまずの唄」を歌ったのだが、このときの川嶋一秀のドラム・ソロは多くのひとを惹きつけるものだった。そしてそこからはシーナ&ロケッツのオリジナル曲を5連発。まずは「いつもはシーナが乗ってるけど、今日飛んできたロケットにはマディ・ウォーターズも一緒に乗ってる!」と話して、昨年発表の最新作『ROKKET RIDE』から表題曲「ロケットライド」を。続いて同アルバムから「ライド・ザ・ライトニン」を荒々しく演奏した。そしてシーナ&ロケッツの代表曲のひとつである「ピンナップ・ベイビー・ブルース」を歌い、続けて「ユー・メイ・ドリーム」も。このとき鮎川は高い声で歌ったり低い声で歌ったりと、自身のなかでキーがしばらく定まらずにいたようだったが、しかし観客の多くがシンガロングして助けたりも。それ、観客と演者との信頼関係が伝わってくる、いい場面だった。そしてシーナ&ロケッツのパートのラストは「アイ・ラブ・ユー」。「いつもはシーナが言いよったけど、今日はオレがマディ・ウォーターズに向けて言います。アイ・ラブ・ユー!」と鮎川が言い、観客みんなも「心を〜込めて〜アイ・ラブ・ユー!」と歌いながら、スウィートなロックンロールを共に味わったのだった。
ここで少しだけ時間を置き、続いてはホトケこと永井隆の登場だ。バックを務めるのはシーナ&ロケッツの3人と中山努(PANTAと長く活動を共にしているキーボーディスト)。Tシャツ姿の鮎川とは対照的に、ホトケはネクタイを締めてスーツ姿でビシっとキメていた。
鮎川がこう説明する。「今回の企画は(高円寺のライブハウス)JIROKICHIの楽屋でホトケと話したことからスタートしました。それからオレと奈良でJ.B.の映画(『ジェームス・ブラウン 最高の魂(ソウル)を持つ男』)を観に行くときに柴山さんも誘って、帰りに焼肉屋で"サンハウスやるぜ"ち言いよるから、じゃあマディのお祝いをしようと」。
それからホトケとロケッツは次から次へとマディの曲ばかりを演奏。まずは「ウォーキン・ブルース」、そして「アイム・レディ」と続けた。ホトケのそのヴォーカルとギターはマディに対する敬意を持ちつつも真似するではなく、長い年月のなかでそれを自らの血肉にしてきたことがわかる、そんな独自解釈によるものだった。そしてMCでは、次のように若き日のエピソードを混ぜながらもマディ愛を表明。「ブルースを歌い始めたきっかけがマディ・ウォーターズでした。昔、まこちゃん(鮎川)と知り合った頃に住んでたアパートの部屋にマディ・ウォーターズと高倉健と浅丘ルリ子のポスターを貼っていて。そしたら下宿のおばさんに"この黒いひとはなに?"って訊かれて」。また、「ローリング・ストーンズの最初のシングル(「カモン」)のB面の曲です」と説明して「アイ・ウォント・トゥ・ビー・ラブド」を歌ったあとには、今度は鮎川がこんなエピソードを。「マディ・ウォーターズが来日したとき、オレたちは『真空パック』を楽屋に持っていって、それを(マディに)渡したんよ。そしたら"キープ・オン・ゴーイン、キープ・オン・ゴーイン"って2回言ってくれて。嬉しかった。そのときマディが言った"キープ・オン・ゴーイン"ってなんだろうって自問自答しながらずっと生きてます」。一方ホトケは、「楽屋に行ったらマディの横にキレイな女性がいて、"娘さんですか?"と訊いたら、ムッとした感じで"ヨメや"と。そのときマディは60を過ぎていて、奥さんは27歳。ブルースマンとして正しい(笑)」と、そんな話を。因みにこの日ホトケが弾いていたのは、世界に100本限りのマディ・ウォーターズ・モデルのギターだそうで、それについてのユニークなエピソードも紹介していたものだ。
曲は「トラブル・ノー・モア」「フーチー・クーチー・マン」と続き、「フーチー・クーチー・マン」をやる前には「精力絶倫男。それ以外に訳しようがない。僕はフーチー・クーチー・マンと違いますよ(笑)」とも。そして「ブロウ・ウインド・ブロウ」「長距離電話」(←ここでの鮎川のギターソロは聴きものだった!)、さらに「40デイズ&40ナイツ」と続けた。
それにしてもホトケのヴォーカル&ギターには渋みと深みの両方がある。そして濃厚でありながら、同時に洗練もされている。blues.the-butcher-590213のアルバムに収録され、シングルでもリリースしたビッグ・ビル・ブルーンジー作の「アイ・フィール・ソー・グッド」は、とりわけそのことを強く伝えていた。また、「ストーンズもカヴァーしている曲です」と言って演奏した「マニッシュ・ボーイ」の"アイム・メーン"の絞り出すような歌い回しを聴きながら、僕はこれほどカッコよく"アイム・メーン"と歌えるヴォーカリストは日本にほかにいないだろうとも確信。最後はマディともレコードを作り続けたジョニー・ウィンターを意識しながら弾く鮎川のギターを前面に押し出しつつ「ローリン・アンド・タンブリン」を歌い、ホトケは「マディに乾杯! シーナに乾杯!」と叫んでステージから去ったのだった。
この段階でもう22時近くになっていたのだが、まだあのバンドが残っている。そう、サンハウスだ。メンバーは出ずっぱりの鮎川誠と奈良敏博、そしてドラムが浦田賢一。ヴォーカルはもちろん菊こと柴山俊之だ。その菊が煙草をくわえたままステージに登場すると、空気は一変する。赤いラメのシャツにオレンジの髪。ギラギラしていて、いかにも"ヤバい"。1曲目はもちろん「キングスネーク・ブルース」。間奏ではいつものようにマイクスタンドを股間に突き立て、何度もしごいて観客を挑発する。続く2曲目もサンハウスの代表曲「爆弾」。睨みをきかせて唸るように「ぶち壊す」と歌う菊は本当に圧倒的な存在感だ。そして「今日はマディ・ウォーターズ生誕100年のライブなんで、ブルースを中心にやる。サンハウスはせんよ。サンハウスを聴きに来たひとは帰っていいよ」と突き放すように言い放って、マディの「準備はいいか(I'm Ready)」を。それは独自の日本語詞をつけたものであり、まったくもってサンハウスの曲群と同一線上にあることを感じさせるものであった。この曲を含め、そこから6曲連続でマディの曲に日本語詞をつけたものを演奏。「マディ・ウォーターズ・ツイスト」で早くも菊は上半身裸になり、しかし盛り上がって騒ぐ客を「ウルサイ、あんたら」と突き放し、そのまま「シーズ・オーライト」へ。"シゾーライシゾーライ"の繰り返しはどこか魔術的でもあった。続く「ユー・ショック・ミー」は特に奈良と浦田によるリズムが太くて重く、ズシンとカラダに響いてきた。鮎川のスライドがとりわけ冴えていたのもこの曲だ。そして「やりたいだけさ(メイク・ラブ・トゥ・ユー)」では"やらせてくれればそれでいい"と猥雑に歌い、まさしくサンハウスの曲にも直結したギラついた欲望表現を。菊こそがフーチー・クーチー・マンだと、そう思わされた。さらに、この日の物販で売られ、メンバーも着ていたTシャツに歌詞の一節がプリントされてもいた曲「タイガー・イン・ユア・タンク」を投下。「オレのタイガーをオマエのタンクにぶちこみたい」と歌われるこの曲は菊がZi;LiE-YAでもカヴァーしていたものだ。
マディの曲に菊が日本語詞をつけたこれらの曲を聴き、サンハウスというバンドがマディからどのように影響され、どのようにそれを咀嚼して自分らの血肉にしてきたかがよくわかった気がしたものだが、それはそのあとのサンハウスのオリジナル曲からもまた伝わってきた。「サンハウスを聴きに来たひとは帰っていいよ」と一度は突き放した菊だったが、ここで「みんなが知ってる曲やります」と言い、まずは「スーツケース・ブルース」を。そして「すけこまし」「ミルク飲み人形」「地獄へドライブ」と続け、まさに"サンハウスを聴きに来た"たちを熱狂させるのだった。オレンジの髪を振り乱し、上半身裸で「アオっ」とシャウトする菊。大蛇のように太く、やらしく、テラテラ光り、「やりたいだけ」の歌ばかりを歌うフーチー・クーチーなこのヴォーカリストの底力に観客みんなが圧倒されるなか、ここでいよいよ本編ラストの曲、そう「レモンティー」! 鮎川、奈良、浦田、菊、そしてここぞとばかりに盛り上がりまくる客たちの熱がひとつとなって頂点に達したところで、ひとまずの終演となった。
当然のことながら熱狂の宴がそれで収まるはずもなく、客たちは手を鳴らし声をあげて続きを求める。アンコール。応えてまず出てきたのは鮎川と菊のふたりだった。菊はライブ本編とはうってかわって柔らかな口調で「サンハウスはブルースバンドから始めたんやけど、(自分は)そんなにブルースを知らんかったんよ。ポール・バターフィールドくらいしか。でもまこちゃんからマディ・ウォーターズを教えてもらって、それからずっと……。"ローリンストーン"をまこちゃんと二人でやります」、そう話してふたりだけでその曲を聴かせたのだが、そこにはまさにふたりの原点とも思える感覚があり、このようにして全てが始まったんだなと感じながらそれを聴いた。そのあと鮎川が出演者全員を再びステージに呼びこみ、「博多では一日一回、誰かがやってる曲です」と言って「ガット・マイ・モジョ・ウォーキン」を。女性シンガーのアン・コールのオリジナルでマディがカヴァー・ヒットさせたお馴染みのこの曲では会場内にいる全員が完全に一体となり、そうしてマディ生誕100年祝賀ライブはまさに祝賀ムードで幕を閉じたのだった。
終わってみて強く思うのは、継承することの重要さである。何もこんな場でぼやくこともないのだが、いまの若いバンドの多くは自分たちのルーツを明らかにしたり、それに対する敬意をわかりやすく表明したりはしない。まあ、国内の先達のトリビュートライブといったものはフェスのなかなどでちょいちょい行なわれたりはするがしかし、国外ミュージシャンに対するそれとなると、オノ・ヨーコの提唱の元で毎年続けられているジョン・レノンのトリビュートライブくらいしか目立ったものはないんじゃないか。なぜもっと自分たちのルーツを明らかにしないのか。あるいは、そもそもその対象がないところから音楽を始めているのだろうか。ルーツまたは影響元が明確にあり、それをある部分で目標にしてこそ、オリジナルの表現力も太く深くなっていくものなんじゃないだろうか。と、そのようにいまどきのあり方と照らし合わせてみれば尚のこと、サンハウスとシーナ&ロケッツと永井"ホトケ"隆がこの日、マディ・ウォーターズの生誕100年を賑やかに祝ったことの意味と意義がハッキリ見えてくる。継承することの重要さが見えてくる。そうして3組は幹をより太くし、過去を未来へと繋いでいってるわけだ。例えばストーンズがそうしたように。……ってなことを考えたりもした下北沢の夜。縦に揺れて(ロック)、横にも揺れる(ロール)、その感覚の最高さをこの上なく味わわせてくれた、実に濃厚な3時間40分。
(内本順一)